3週間くらい前に、JIO(日本住宅保証検査機構)の方から「JIOに入りませんか?」と連絡があり、おおかたの話を聞き、先程登録の手続きを済ませました。てっきり工務店が加入する組織と思っていたのですが、設計事務所にも徐々に加入、登録の声をかけていくそうである。茨城県南の設計事務所では、まだほんの数社しか登録されていないそうだが、登録していれば良いというものでもない、と思います。住宅性能保証(アーキヴィジョンでは現在100%)、住宅性能表示はすでに一般的になったが、地盤調査の段階からJIOを使う事ができるためメリットはありそうである。欧米の住宅と建設システムが違い、日本では工事施工会社が、自社に都合のよい設計をさせる設計部門をその資本力によって抱え込む事で、これらの検査機構を商売繁盛とさせているのではなかろうか。と思ってしまう。本来はその基本どおり、工事監理を適切に行えばいいだけのはずなのだが・・・・・・。
以前、カナダのホームビルダーと仕事をした際に、彼らから聞いた話であるが、カナダでは住宅の工事において、ホームビルダーは工事を請け負うのみで(職人の手配と現場のコントロールのみ行う)、設計は設計事務所が必ず行う事になっていると言う。しかも監理や検査はさらに別の機関ないし別の組織が行い、第三者によるもので保証付きが多いと言う。設計料も総工費のほぼ6%で決まっている場合が多いそうだ。さらに、借り入れをして展示場を建てたり、現場部門以外の間接スタッフを雇ったりはしないとのことだ。そういうことをしていると経営が覚束なくなるとも話していた。要するに、同一企業ではない、さまざまな人たちが家作りに参加して、経営はスリム化していく仕方である。家作りの仕方というか考え方が、日本ほどめまぐるしく変わらないので、このやり方が定着しているらしい。
一軒の家が完成するまでは多くの人が関係してくる。工事施工者はすぐ現場が頭に入るであろうが、われわれ設計サイドからすると着工の時点で、頭の中で8割は仕事が終わっている。残りの2割を品質管理に向けるのである。また人だけでなく、「物」すなわち、建築を構成する材料として、セメント、砂、木材、塗料、ガラス、鉄筋、水、床材、仕上材、屋根材、断熱材、電気配線材料、設備機器、水道配管材、足場と、あげたらものすごい数になる。それらの全てを工事の進捗状況に応じて検査、チェックするには関係する人が多い方が良い。現場監督一人では無理がある。(職人あるいは納材業者→現場監督→工事監理者→設計者→施主)のラインを崩さないで進めていくのが、現場をスムースに運ぶ秘訣であると考える。( )のなかの職人と施主を除いた残り全てが同一企業の中にあるのが、日本の現状だ。
とはいうものの、建設業は、時代の好不況に最も左右されやすい業種であるから、クライアントから見れば、安心、安全な方に軍配が上がる。工務店は、受注が取れなければ下請けをやるか、増資をするか、さもなければタッチアウトである。元請をメインにやっていたところで下請けに手を出すところ(建売に手を出したらおしまいだ)は、大体においてお客様、すなわちクライアントの方に顔が向いていない場合がほとんどである。クライアントでなく、職人の方ばかりに顔を向けている工務店では、信頼を勝ち取ることは難しい。工務店の頭(かしら)が、職人を取りまとめて「俺が親分だ」という図式は過去の遺物になってきたのが今日の状況である。そういう状況も懐かしいといえばそうなのだが・・・・。毎月晦日(みそか)に職人を集めての飲み会も良いが、その日、その日の仕事の状況を工事監理者に報告する事を怠ってはいけない。現場においては、職人であってもクライアントの方を向いて仕事をするよう指導している。もちろん職人から教えられる事も多々あるが、朝から晩まで、春夏秋冬同じことをしているわけだから、うまく仕上げて当然と、こちらはそしてオーナーは思う。なぜこんな事を言うかといいますと、カナダの職人の方が、日本の職人に比べて、かなり守備範囲が広いのです。タイル職人は屋根も、サイディングも施工する。そして味わいのある仕上げをする。礼儀もちゃんとしている。外壁にタイルやレンガを使うときは、必ず仮置きをして、こちらの承諾をとってから施工する。日本では目地割(めじわりといいタイルの大きさや種類によって美しく目地を通すこと)もできないタイル職人が少なからずいることもたしかだ。その理由として、タイルやレンガは今、100%ネットか輸入商社からワンプライスの価格で入れる。(無垢のフローリングも同様)したがってタイル職人は手間だけで請け負うため、その腕だけが勝負どころとなる。しかし考えてみれば、昔から職人とは腕だけで食べていけるのが「職人」であって、タイルの仕入れや決済は基本的にやらないほうがいい。
然るにカナダの場合、職種が少なくなるため、総工費は低く抑えられる。職人が多くて検査や監理が手薄なのが日本、職人が合理的で、検査や監理に人件費を回しているのがカナダということになる。職人のレベルは依然としてハイレベルではあるが、整理、整頓、帰りがけの掃除は当然のこととして、他の職人の悪口を言う職人は、問答無用で不要となる。そういう職人に限って腕は落ちる。無口で、多少愛想は悪いが粛々とやっている方がいい。こっちに対しても愛想の悪いのがたまにいるが、こちらはぜんぜん気にしてない。悪すぎても困るが・・・・。同じ職人同志の悪口を言う前に「和をもって尊とし」の精神を思い出さないといけない。
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ここから歴史を600年ほど遡っての職人の話し。初期ルネサンスの革命的建築家「ブルネレスキ」の職人指導力は、今に通じるところがある。後ほど出てきます。初期ルネサンスの魅力は、有史以来の歴史の変わり目の中でも魅力的な時代だ。芸術の分野に限ったとしても、ダヴィデを表現した彫刻の革命児「ドナテルロ」、アダムとイブの楽園追放を描いた絵画の革命児「マザッチョ」、サンタマリア・デル・フィオ―レ大聖堂の独創的な二重殻構造を現場で指導したブルネレスキが登場した初期ルネサンスは、「人間開放」などと一言では言い表せないほど、どろどろとした、朝日と言うよりも夕暮れの、夕暮れと言うよりも闇夜の、コジモ率いるメディチ家と仇敵アルビッチ家の睨み合いの裏ではさらなる権力闘争が生まれ、追放と処刑を日常茶飯事とし、一方では「人間開放」を理由に、それまでのキリスト教の束縛から逃れた芸術が開花し、世界そして市民に曙光を照らし出し、健全な企業あるいは健康な市民からかき集めた貨幣によって、金融王国を作り上げたメディチ家の登場、そして粘っこい、とっておきの水戸納豆でさえ、ジムトンプソンのさらさらとした、この上ない上質な手作りのタイシルクのスカーフのように感じさせてしまうほど魅力的な時代であった、と思う。ただし、歴史を顧みるとき注意しなければいけないのは、今振り返って魅力的なのであって、当時の市民はそうではなかったかもしれない、という考え方を持ちながら思考することも必要だ。歴史は存在しない、ただ解釈だけがあるだけだ、と言い放った、スイスの歴史家、ヤーコブ・ブルクハルトの、ある意味では実存主義的な考え方というよりか、ニーチェとブルクハルトは友人同士であったわけだから、まさに実存主義そのものとしての歴史解釈も時と場合によっては、俄然光に満ちてくる。
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さて、同じくブルネレスキの設計による「捨て子養育院」が完璧にギリシャ古典様式のモチーフで組み立てられたのには理由がある。当時、生んでも育てられない市民がいかに多かったか、そして無責任な親達に警笛を鳴らすがごとく、完全なるプロポーションの古典様式を、ファサ−ドデザインに当てたのは、乱れに乱れた風紀と無きに等しい道徳を、デザインによって解決しようと目論んだことは充分想像できることである。「捨て子養育院」とはその字のごとく、捨てられた子供たちを育てる施設である。フィレンツェに宿を取るときは、必ず、この「捨て子養育院」を部屋から見晴らせるところに決めている。入り口の横に木製のドアがあり、夜になると母親が育てられないわが子をそこに投げ入れる姿を想像すると、もしかすると、ルネサンスという時代は表層だけしかわれわれにはわからない、暗い世界だったのかもしれない、という解釈もできることを、ブルクハルトは言っているのであろう。ホテルの部屋からその木製のドアを見つめていると、ルネサンスの裏のうごめきが聞こえてくる。今、ウフツィから遥々シベリア上空を越えて、さもなければインド洋を越えて上野に来ているダ・ヴィンチの「受胎告知」もいいが、「捨て子養育院」は、さらに本質に迫ってくる。こちらは越えることができませんので、行かなければなりません。絵画は2次元だが、建築は3次元である。絵画には構造はないが、建築には構造がある。構造のある芸術としては、詩と音楽と建築があげられる。
「捨て子養育院」
さて前置きが長々としてしまったが、デル・フィオーレの工事があまりにも大変なため、というよりか大変そうに見せかけ、ブーブー文句を言う職人達の行動様式を冷静に見つめ、ブルネレスキはストライキを起こした彼らを全て解雇させた。ミラノから新しく雇った職人たちに即座に仕事を覚えさせた結果、解雇された職人たちは食っていけなくなり、ブルネレスキに「仕事をやらせてほしい」と泣きついたのはいうまでもない。そこでブルネレスキは、以前より安い賃金で彼らを雇ったというエピソードが、ヴァザーリの「芸術家列伝」の著作に記されている。ブルネレスキにとって、職人の都合など二の次なのである。職人よりもフィレンツェ市民の方を見て仕事をしている姿が目に浮かぶ。その明快で冷徹な眼差しがあの歴史的な建築を成立させたのである。
「サント・スピリト教会」
1446年 ブルネレスキ設計
長く付き合っている各専門工事会社や職人達も多いが、ここにきていろいろな工事会社や職人から「仕事がしたい」と連絡が入る。たいして面白くもない、前置きだけがだらだら長い「セルフ・トーク・ショウ」が、とても面白かったとアクセスが入る。会ってみて、「この人だったら、クライアントの方を見て仕事をしそうだ」と感じたときに次に進む。そう思わないときは心の中で、さよならの右手を振っている。言い訳や能書きは聞きたくない。聞きたいのはビル・エヴァンスやワーグナーだ。「ワルツ・フォー・デビー」のリリシズム溢れるメロディーは心を平穏な世界へと導いてくれる。夕暮れに聞くのがいい。一方、歌劇(タンホイザー)の中の「バッカナール」は曙光に満ち満ちている真昼の音楽だ。フルトヴェングラーもいいが、うまくして、ベルリンフィルの指揮者となったカラヤンが一番だ。さて、地縁、血縁による家作りで、かつては和気あいあいとやってうまく収まったが、クライアントはそういうことよりも、設計図書どおりに工事が進捗していく方を大切な事と考える。「和をもって尊とし」の精神も大切だが、クライアントは職人の都合や、工務店の都合で工事を発注しているのではない、ということをわかって仕事をしている工事関係者が多いため、ハイレべルに仕上がっている。
もうひとつ、アーキヴィジョンでは消費者保護の形として「日事連・建築士事務所賠償責任保険」に2003年より加入しています。日事連とは社団法人日本建築士事務所協会連合会のことです。しかしながら、昨年から保険料が「諸般の事情により上げさせていただく事になりました」とあり困ったものです。手賀沼に花火が上がると気分がいいが、保険料が上がると気分が悪くなる。
2007年 皐月
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