建物が重力に対するアンチテーゼとして上昇気流に乗って上に行こうとする場合、安定感に欠けるときがしばしばある。ウクライナホテルやモスクワ大学などは、スターリンの絶頂期に「斜塔はないのか」の一声で四角い箱に塔を乗せて「上昇気流」と「安定感」を見事に合わせ持った傑作である。もちろんこの場合の「上昇気流」とは権力のことであり、ナチス・ヒトラーに対するものであると思われる。
モスクワの丘にある7つのスターリン様式の高層建物は、独ソ不可侵条約を破って攻め込んできたナチスドイツに対しての憂さ晴らしとして成立した傑作ということになる。(36階建てのモスクワ大学は1953年築、29階建てのウクライナホテルは1957年築だから僕が1歳の時である)しかしながら凍てつくような凍土のモスクワには、当時ヒトラーは手も足も出せなかったようだ。地政学的状況の判断ミスがその後の戦局を物語っている。難解なハイデガーの「存在と時間」を片手に、ひたすら東進する兵士達の存在を「非存在」にしてしまうほどの寒さである。(哲学者ハイデガーはナチスの軍服を着て教壇に立っていたとの話しもある)壊滅したベルリンに対してヌクッと建ったスターリンデコ様式。(アールデコのスターリン版)いつ見ても美しい。それぞれが個性的でなく、スターリン体制の下で統制的にデザインされているのがいい。マルクス・レーニン主義だから個性的であってはならないわけだ。主義、主張の最終到達点が共産主義であると教義では歌っている。とは言うものの無神論国家ソ連は、その後わずか30年足らずで消滅してしまったが・・・・。みんな頭の構造も違うし、考えることも違う。やりたいことも違うし、やりたくないことも違う。美空ひばりが一番という人もいれば、マリア・カラスが一番という人もいる。「トリスタンとイゾルテ」を歌わせたらソプラノのジェシー・ノーマンに限る。いやいや、エラ・フィッツゼラルドがいい。なにをおっしゃるウサギさん、カーメン・マックレイが最高よ。森進一も忘れないでね。聖子ちゃんのスローバラードが一番ジンとくるわよ。と言った具合に末広がりに展開される。僕だったらさしあたって、そのねっとりとした歌唱力で、気分をニューオリンズへと運んでくれるダイナ・ワシントンを贔屓にしたい。それらを一緒くたにして統制するのには無理がある。「統制」に対する反動として、ハンガリー動乱(1956年、僕の生まれた年)、プラハの春(1968年、メキシコオリンピックの年)が思い出される。何事も無理を承知で物事を実践すると破綻が待ち構えている。
金のないエンゲルスが、場末の飲み屋で安いウォッカを浴びながら構想した机上の空論に翻弄されたのが、20世紀の歴史ということになる。しかしながらこの「机上の空論」は、思想的文脈の密度があまりにも高く、読むものを無垢の世界へと導き、資本家の追随を一切許さないほどの濃密な大海原の中で、大いなる未来に自己を転写したものだ。それに加え伝播させるかなり強力な遺伝子を内包していたため、というよりか安いウォッカで充分いい気分になれたため、わが日本の知識人もオレモ、オレモと飛びついたのは記憶に新しい。「机上の空論」はとてもまっとうな人間にはなじめない。場末の飲み屋の情景はドストエフスキーの一連の作品に詳しい。シベリア流刑を終え、空想的社会主義者からキリスト者へと転換したドストエフスキーほど自国を嫌っていた作家はいないのではないかと思う。ドストエフスキーは、すでに刑期を終えた1854年の時点で1991年のソ連の崩壊を読んでいたのである。驚くべき予言者である。多くの読者に読まれた「罪と罰」。崩壊を読んだドストエフスキー、いずれにしても読むことの大切さを教えてくれる。
常日頃から政治と建築の真っただ中からは縁のないところで仕事をしているため、歴史的建築は第三者的に見ることができるので気が楽である。言いたい放題である。文化的な文脈から見るのが一番多いのであるが、地政学、政治、思想、金脈と必ずと言ってよいほど繋がっている。そこが面白い。時代を写す最も正直な姿、それが建築である。日々の仕事では、特に最終実施設計図の最後のチェックは相当神経を使うが、気分転換に歴史的建築を見るのは楽しい。遺跡もこれまた楽しい。すり減らした神経が元に戻る。下は96年の5月にモスクワに行ったときに撮影したものです。
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モスクワ大学 |
ウクライナホテル |
一方、同じくアールデコ様式で建築されたマンハッタンのクライスラービルやエンパイヤステートと比較すると、その「安定感」も特徴のひとつだ。マンハッタンは土地が限られるためペンシルビルになるが、モスクワでは余裕をもった敷地が提供される。低層部分を末広がりに計画できるため、より斜塔部分が引き立ち荘厳なシルエットが成立する。共産主義国家建設におけるステータスシンボルとして、スターリンの野望が西側陣営を威嚇する様が見て取れる。安定感に欠けたソ連経済に対して、最も「安定感」のあるスターリンデコ様式が同一地平線上に堂々と立っている様はモスクワにしかない。マンハッタンのクライスラービル、モスクワ大学それぞれ甲乙つけがたいアールデコ様式の傑作である。
2007年 睦月
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