● ● ● ● ● 和楽たのしや、あったかし ● ● ● ● ●


入居されて1ヶ月を過ぎたところで「和楽」の家にお邪魔した。ドアを開けたとたん「ほんわか」とした暖かさと奥様の笑顔が、年の瀬の慌しさと肌を突き刺す寒気を忘却の彼方へと運んでいく。和はやっぱり落ち着く。本格的な和風の家ではないところがいい。これ見よがしな本家の入母屋でもない。まったく威張ってないところがさらにいい。太い柱が家の真ん中にドンとないのがこれまたいい。床の間の形式にとらわれるどころか、その床の間さえ存在しないのがとても素敵だ。ここでプラトンが思い出される。有名な「知らないということを知っているのだ」のくだりになぞって「存在しないという存在なのだ」というわけだ。誰でも溶け込めそうな感じである。「和風」と「和楽」の違いかな。ここで「徒然草」の「花は盛りに・・・・」をひく。 

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花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れ
こめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、
散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。歌の詞書にも、「花見にまか
れりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障ることありてまからで」
なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れることかは。花の散り、月の
傾くを慕う習ひはさることなれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝かの枝
散りにけり。今は見どころなし」などは言ふめる。

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満開の桜や輝く満月だけを追いかけるようでは、美に対するセンスがない、すなわち、当たり前の和風をただ真似ているようでは美に対するセンスがないということになる。ほんとうの美は、肉眼に映し出されるよりもむしろ心眼によって、心の銀幕に映し出されるということのようだ。後半もまたいい。桜が散るのや月が西に沈むのを名残惜しみ「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたからもう見る価値はない」と、外から押し付けられた受動的な屋外の景色に浸るのではなく、目を閉じて、まぶたの裏に花や月のさまざまな情景を自由自在に描いてこそ、自然の美を心底から自分のものにするのだということを言っている。無常観が漂う有様が心を打つ。
さて、この「和楽」の家は本格的な在来工法で建てられたものではない。外来のツーバイフォーである。それゆえ、そのことのみを捉えて邪道であると言う方も少なからずいる。邪道であると言う方々の多くは大体において本格的な和風は作れないものだ。ここでは「和風」という形式にとらわれずに「和」を楽しんでいるのだ、ということのほうが重要な意味をなす。いずれにしてもここに建築されているのは紛れもない事実であるから、それ自体はまったく否定しようもない。存在の優位性である。そういう意味で実存主義をチョット呼んでみよう。おーい、誰かいるかな?(実存主義とは存在していること自体が物事の本質に先立つのだ、という思想で、建築をやっている連中ははまりやすい。こういう僕もかつてサルトルやニーチェにはまったが、特にニーチェは「毒」をいたるところに盛っているので適当なところで解毒剤を飲まねばなりません。中毒症状が長く続くといけません。健康第一です。彼自身最後には発狂してしまいましたが・・・・)「無常」の卜部兼好と「不条理」のカミユがどこかで繋がっていると思うのは僕だけか。時代の共通点もある。一方は南北朝の動乱の乱世に生き、もう一方はフランスの旧植民地アルジェリアで生まれ太平洋戦争を経験し、実存主義文学の金字塔を打ち立てた。「徒然草」を東の横綱、「異邦人」を西の横綱に置く。世界がねっとりと熱い時代であった。熱く燃え滾る煩悩の火さえ、一瞬にして燃え尽きさせてしまうほどの時代であった。同時代に生きて、今は地下に眠るサルトルやボーボワールも熱かった。熱すぎてやけどをした輩も多かったろう。

 

 

おそらく、やはり地下に眠るジョン・レノンはボーボワールの「第二の性」を参照し、問題作「WОMAN IS THE NIGGER OF THE WОRLD」を作り上げたのかもしれない。熱いついでにこの曲が収められている「サムタイム イン ニューヨークシティー」のLPジャケットの表紙には、ウォーターゲート事件で失脚したリチャード・ニクソン元大統領が裸踊りをしているのも笑ってしまう出来事だ。それほど熱かったわけだ。それに比べると、今のフラット化する社会がなんとなく薄っぺらに感じてしまう。このまま行くと紙っぺらになってしまいそうだ。紙っぺらで作った紙飛行機で大空を飛びたいものだ。
「熱い」の対語は「冷たい」、そして「厚い」の対語が「薄い」です。この4つを引っ掛けています。

 


それにしてもこの暖かさは気持ちよい。心の芯まで伝わる暖かさだ。フローリングの下に敷く温水パネル方式と違い、基礎のベースコンクリートの上に埋め込まれる蓄熱式床暖房の効果によるものだ。温水パイプを埋め込んだモルタルとベースコンクリートの間には厚い断熱材が敷き込められているため、地中からの冷気によるエネルギーロスも少ない。暖められた土間のタイルから上がる暖気と、フローリングから上がる暖気とは微妙に感じ方が違う。差異の戯れである。熱すぎたサルトルの時代と違い「ほんわか」とした現代の暖かさだ。


2006年 師走